歴史上で有名な策士家
日本の策士:徳川家康
戦国時代に生まれながら、その後264年間も続く江戸幕府を開いたのが徳川家康です。彼の有名な策士エピソードとして、「関ヶ原の戦い」が挙げられます。
関ヶ原の戦いでは、徳川家康率いる東軍の兵は70,000、対して敵の西軍の兵は100,000でした。圧倒的不利な状況を覆して東軍が勝利。実は合戦前に西軍の小早川秀秋に対して「戦が始まったら東軍に寝返ること」と交渉をしていました。
しかし、いざ戦が始まると、小早川英秋は西軍の味方でいるべきか、東軍に寝返るべきか葛藤をはじめ、兵を動かしません。それにいち早く気付いた家康は、大砲を小早川英秋の軍に向けて発射。小早川英秋は慌てて東軍に寝返る事となり、徳川家康率いる東軍の勝利に貢献しました。
日本の策士:黒田官兵衛
豊臣秀吉の軍師を務めていた黒田官兵衛。彼が策士と呼ばれることとなった最も有名なエピソードは、本能寺の変と言われています。本能寺の変といえば、織田信長が家臣であった明智光秀に襲撃された事件のことです。
一見、秀吉の軍師である黒田官兵衛には関係のない話のように感じますよね。しかし、この本能寺の変で明智光秀が織田信長を襲撃するように仕向けたのが、黒田官兵衛であったとの説があります。
当時天下をおさめていた織田信長が討たれるということは、自分の上司に当たる豊臣秀吉が天下を取るチャンスが訪れるということ。結果的には黒田官兵衛の思惑通り、豊臣秀吉が天下を統一することとなりました。
日本の策士:上杉謙信
上杉謙信は越後の戦国大名です。甲斐の虎と呼ばれる武田信玄とはライバル関係であり、5度もの死闘を繰り返していました。戦いには軍資金が必要となりますが、上杉謙信はどのように軍資金を得ていたのでしょうか。
実は、彼は越後でつくられる「越後上布」をブランド化した張本人。当時は木綿の大量流通がされておらず、布の需要は非常に高い時代です。そんな中で、上杉謙信は越後上布の専売権の獲得に成功。このようなエピソードからも、彼が策士として活躍していたことがわかります。
海外の策士:諸葛亮孔明
『三国志』の策士として有名な諸葛亮孔明。戦乱の最中、常人では思いもよらない戦略によって勝利をおさめつづけていました。彼は死後も敵軍を脅かしたエピソードを持っています。
諸葛亮孔明は自身に死期が近づいている事に気付き、蜀軍には自分が亡くなった時は撤退するよう指示をしました。それと同時に、自分に似た人形を作らせます。孔明の死後、蜀軍が撤退を開始した際に、敵軍は孔明が亡くなった今が好機とばかりに進軍を開始。
しかしそこに、孔明が姿を現します。それを見た敵軍は「孔明の罠だった。彼は死んではいない」と撤退。この孔明が実は人形だったことも知らずに…。死してなお、敵を脅かす策を投じる諸葛亮孔明こそ、策士の中の策士かもしれません。
海外の策士:ネフメト2世
ネフメト2世はある奇策により、1,000年の歴史を持つ東ローマ帝国を打ち破ってしまいます。標的であるコンスタンティノープルの横には金角湾があるのですが、入江を鎖で封じているため入れず、強固な守りを維持していました。
そこで、ネフメト2世は金角湾に船を運ぶ奇策を放ちます。その方法は、金角湾横の陸地に油を塗った木を並べ、その上に船を渡らせること。70隻ほどの艦隊が船で山越えを成功させ、金角湾に無事到着を果たします。
この奇策により、戦いを有利にすすめられたネフメト2世が率いる軍が見事勝利。いまでも「オスマン艦隊の山越え」と呼ばれて語り継がれています。
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